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色と形が語る感情の多層性:アートセラピーにおける複合感情への臨床的アプローチ

Tags: アートセラピー, 複合感情, 色彩心理, 形態分析, 臨床技法, 感情表現, 心理療法

はじめに:複合感情とアートセラピーの接点

臨床において、クライアントが抱える感情はしばしば単一ではなく、複数の感情が同時に存在し、複雑に絡み合っていることが観察されます。喜びの中に不安が、怒りの中に悲しみが、といった具合に、感情のモザイクが内面世界を形成しています。このような複合感情、あるいは感情の多層性は、言語化することが非常に困難であり、クライアント自身もその複雑さに混乱したり、特定の感情を抑圧したりすることがあります。

アートセラピーは、色や形、素材といった非言語的なツールを用いることで、この言語化困難な複合感情にアクセスし、表現することを可能にします。色彩の混合、形の重なりや配置、異なる素材の組み合わせなどは、まさに内面の多層性を反映する媒体となり得ます。経験豊富な臨床心理士にとって、クライアントの作品に現れる色と形のダイナミクスを深く読み解くことは、クライアントの複雑な内面世界を理解し、より精緻な臨床的介入を行うための重要な手掛かりとなります。本稿では、アートセラピーにおいて複合感情がどのように色と形で表現されうるか、その表現から何を読み取り、臨床実践にどう活かすかについて考察します。

複合感情の心理学的な理解とアートセラピーの意義

感情は、基本的な感情(喜び、悲しみ、怒り、恐れなど)が組み合わさることで、より複雑な感情(例:失望=悲しみ+驚き、羨望=悲しみ+怒りなど)を形成するという考え方があります(Plutchik, 1980)。また、特定の状況下で相反する感情(例:進学の喜びと親元を離れる悲しみ)が同時に生じることも一般的です。さらに、過去の経験や現在の状況、対人関係の複雑さなどが影響し合い、特定の感情が他の感情の背後に隠されたり、一つの感情が複数の感情によって強化されたり弱められたりする「感情の層」を形成することもあります。

このような複合感情は、個人の内的な葛藤やアンビバレンス、あるいは自己の一部が他の感情を否定・排除しようとするメカニズムに関連していることがあります。特に、感情弁別困難(alexithymia)の傾向があるクライアントや、トラウマ体験により感情が分断されているクライアントにおいては、複合感情を意識的に識別したり表現したりすることが極めて困難となります。

アートセラピーは、このような複合感情に対して、以下のような意義を持ちます。

  1. 非言語的な表現機会の提供: 言葉にならない感情の混合や衝突を、色や形の物理的な相互作用(混色、重ね塗り、形の配置など)として表現できます。
  2. 感情の可視化と分化: 曖昧に感じられていた複合感情が、作品として具体的に目の前に現れることで、その構成要素や関係性を客観的に捉え、分化(識別)していくプロセスを促進します。
  3. 感情の受容と統合: 相反する、あるいは対立する感情を一つの作品の中に共存させることは、それらの感情を自己の一部として受容し、統合していくプロセスを象徴し得ます。
  4. 内的なダイナミクスの反映: 色と形の組み合わせ、配置、作品全体の構図などは、感情間の相互作用や、それらを巡る内的な力動を反映する手掛かりとなります。

色と形が語る複合感情のサイン

クライアントの作品に現れる色と形の表現から、複合感情の存在やその性質を読み解くための具体的な視点を以下に示します。これらの視点は、単なる記号的な解釈ではなく、クライアント自身の語りや制作過程での様子と照らし合わせながら、仮説的に探求していくためのものです。

1. 色の混合と重なり

2. 形の同時存在と配置

3. テクスチャーとストローク

複合感情を探求する具体的なアートセラピーアイデアとその進め方

経験豊富な臨床心理士の皆様が、クライアントの複合感情にアプローチするための具体的なアートセラピーアイデアとセッションでの進め方についてご紹介します。

アイデア1:「私の感情モザイク」

目的: クライアントの中に存在する複数の感情を可視化し、それらがどのように組み合わさっているかを探索します。

進め方:

  1. 導入: セッション開始時や、クライアントが複雑な感情状態にあることを示唆する際に、「今、あなたの中にどんな感情がありますか?一つだけでなく、いくつか同時に感じているかもしれません。」と問いかけ、複合感情の存在を認めます。
  2. 材料の提示: 色鉛筆、クレヨン、パステル、絵の具など、様々な色と素材の画材を用意します。
  3. ワークの説明: 「あなたの今の気持ちを表すとしたら、どんな色や形になりますか?一つの色や形ではなくても構いません。いくつかの色や形を組み合わせて、あなたの心の中にある様々な感情がどうなっているか、紙の上にモザイクのように描いてみましょう。」と促します。「それぞれの色や形が、どんな感情を表しているか、考えてみながら描いてもいいですし、ただ手が動くままに描いても構いません。」
  4. 制作: クライアントが自由に制作します。臨床家は制作過程を観察し、クライアントの非言語的な様子(迷い、勢い、集中など)に注意を払います。
  5. 作品の共有と探求: 作品が完成したら、クライアントに作品を見ながら語ってもらいます。「この作品について、何か気づいたことはありますか?」「この色は何の気持ちに感じられますか?」「これらの形は、どんな関係性にあるように見えますか?」「この重なっている部分は、どんな感じですか?」といったオープンな質問をします。臨床家は、作品の具体的な要素(特定の色、形、その位置関係、混色の具合など)に焦点を当てながら、クライアント自身の言葉を引き出します。特定の感情に固執せず、作品全体のダイナミクスや、感情間の「間(ま)」や「関係性」について探求する視点が重要です。
  6. まとめ: クライアントが作品を通じて感じたこと、気づいたことを振り返り、複合感情を可視化した経験について語ってもらいます。このワークを通じて、感情の複雑さを「そのまま」表現し、それを受容するプロセスを支援します。

アイデア2:「関係性の中の感情レイヤー」

目的: 特定の対人関係(家族、パートナー、職場など)においてクライアントが経験する複合的な感情や、感情の層を視覚化し、理解を深めます。

進め方:

  1. テーマ設定: クライアントとの話し合いの中で、特に葛藤や複雑さを伴う対人関係をテーマとして設定します。
  2. ワークの説明: 「〇〇さん(特定の関係性の相手)との関係の中で、今あなたの中にどんな感情がありますか?一つの感情だけでなく、良い感情も難しい感情も、いくつか同時に感じているかもしれません。それらの感情を、色や形を使って層のように描いてみましょう。一番表面にある感情、その下にある感情、さらに深い層にある感情など、思いつくままに表現してみてください。」と促します。
  3. 材料の提示と制作: 透明な素材(トレーシングペーパー、OHPシートなど)や、異なる種類の紙、あるいは絵の具の重ね塗りなど、感情の「層」を表現しやすい材料を提示します。クライアントはこれらの材料を用いて制作を進めます。
  4. 作品の共有と探求: 完成した作品を見ながら、クライアントに語ってもらいます。「この一番上の層の色は何の感情に感じられますか?」「その下の層は?」「これらの層は、お互いにどんな影響を与え合っているように見えますか?」「この関係性の中で、どの感情が一番表に出やすいですか?」「逆に、隠していると感じる感情はありますか?」など、層構造や素材の重なりに焦点を当てた質問をします。
  5. 応用: 複数の紙や透明シートを用いた場合は、それらを重ね合わせたり、ずらしたりしながら、感情の層の関係性の変化を視覚的に探求することも可能です。また、それぞれの層にタイトルをつけたり、簡単な言葉を書き加えたりするのも有効です。

セッション上の留意点と臨床家の役割

実践上の応用例と困難事例へのアプローチ

応用例:曖昧な訴えの多いクライアントへのアプローチ

言語による自己表現が苦手で、自分の気持ちを「よくわからない」「なんとも言えない」と曖昧に語ることが多いクライアントに対し、色と形を用いたワークは有効です。作品を通じて、クライアント自身も気づいていなかった感情の混合や、言語化できない感情のニュアンスが可視化され、自己理解の手掛かりとなることがあります。

応用例:慢性的なストレスや葛藤を抱えるクライアントへのアプローチ

仕事や人間関係など、特定の状況下で継続的に複数の感情(例:責任感と疲弊、期待と諦め、怒りと無力感)を同時に抱えているクライアントに対し、その感情の複雑さを作品として表現することで、内的な整理や対処法の検討に繋がる可能性があります。感情の「層」や「関係性」を視覚化することで、問題の構造がより明確になることもあります。

困難事例へのアプローチ:感情の分断や解離傾向のあるクライアント

トラウマ体験などにより、特定の感情が他の感情から分断されている、あるいは感情全体が麻痺しているように見えるクライアントに対し、色や形は安全な距離を保ちつつ、分断された感情の断片や、その断片間の微細な繋がりを表現する媒体となり得ます。強烈な感情表現が出現した場合も、色や形として紙の上に留めることで、感情に圧倒されることなく、臨床家と共にそれらを「見る」「語る」ことが可能になります。作品に現れた異なる色の断片や、隔絶された形などは、分断された感情のメタファーとして探求することができます。作品を前に、安全な文脈の中で、クライアントが自身の感情の断片に少しずつ触れ、それを自己の一部として認識していくプロセスを丁寧に支援します。

結論:複合感情へのアートセラピー的視点の重要性

クライアントの心には、単一の感情では捉えきれない豊かさ、複雑さ、そして時に困難さが存在します。複合感情への深い理解と臨床的な介入は、クライアントの全体像を把握し、より包括的な支援を行う上で不可欠です。

アートセラピーにおける色と形は、この複合感情の多層性を表現し、可視化するための強力なツールとなります。色彩の混合や重なり、形の同時存在や配置、そしてテクスチャーやストロークは、クライアントの内面世界がどのように織りなされているかを語る豊かな言語です。

経験豊富な臨床心理士として、クライアントの作品に現れるこれらの非言語的なサインを繊細に読み取り、クライアント自身の語りと丁寧に照らし合わせながら探求していくことは、クライアントが自身の複雑な感情を受容し、内的な統合へと向かうプロセスを力強く支援することに繋がります。本稿で提示した視点やアイデアが、皆様の今後の臨床実践の一助となれば幸いです。アートセラピーを通じて、クライアントの心の奥深くに眠る多層的な感情世界への探求を続けていただければと思います。