境界性パーソナリティ障害の複雑な感情へのアートセラピー:色と形による表現とセッション展開
はじめに
境界性パーソナリティ障害(BPD)のクライアントは、激しい感情の不安定さ、衝動性、自己像や対人関係の不安定さといった特徴を示し、その内面はしばしば極めて混沌としています。感情は強烈かつ急速に変化し、言語化が困難であったり、言葉が感情に追いつかない感覚を抱えたりすることが少なくありません。このようなクライアントにとって、非言語的な表現手段であるアートセラピーは、内的な体験にアクセスし、表現し、理解を深めるための強力なツールとなり得ます。
本稿では、境界性パーソナリティ障害のクライアントが抱える複雑な感情や不安定な自己・他者関係が、アートワークにおいて色や形としてどのように現れうるか、そしてその表現をどのように臨床的に読み解き、セッションを構成していくかについて、専門家向けの視点から考察します。アートを介した表現と臨床家の介入が、クライアントの感情調節能力の向上や内的な統合プロセスをいかに支援できるかに焦点を当て、実践的なアプローチを提示します。
境界性パーソナリティ障害における感情とアート表現の特性
BPDのクライアントの内的な体験は、「オール・オア・ナッシング」的な思考や感情の二極化(スプリッティング)を伴うことが多く、これがアートワークにも反映される場合があります。
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色彩:
- 激しい感情(怒り、絶望、恐怖、陶酔など)は、原色や補色の対比が強く、混沌とした配色や、画面全体を覆うような強いトーンで表現されることがあります。
- 内的な空虚感や解離は、無彩色、単調な色使い、または色の欠如として現れる可能性があります。
- 感情の急激な変化は、同一画面内に異なるトーンや色彩が混在・衝突する形で表現されることがあります。
- 自己と他者の関係性における理想化とこきおろしは、特定の対象を非常に明るく鮮やかな色で描き、別の対象を暗く濁った色で描くといった形で示唆される場合があります。
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形態:
- 不安定な自己像や関係性は、断片化された形、不定形な線、境界線の不明瞭さとして現れることがあります。
- 内的な混沌や混乱は、無秩序な線や形、画面全体の構成の欠如として表現される可能性があります。
- 衝動性や破壊性は、力強い筆致、画面を突き破るような線、作品の破壊や破棄といった行動として現れることがあります。
- 相反する感情や自己の部分は、同一画面内に共存し得ないような異なる形態が描かれることで示唆される場合があります。
これらの色彩や形態は、クライアントの言語化されにくい内的な状態、特に感情調節不全、自己の断片化、不安定な対象関係を理解する手がかりとなります。
アートセラピーの理論的背景と有効性
境界性パーソナリティ障害へのアートセラピー介入は、複数の理論的視点からその有効性が支持されます。
- 対象関係論: 感情の二極化や不安定な対人関係は、早期の対象関係におけるスプリッティングや安定した内的な対象の欠如に根ざすと考えられます。アートワークは、内的な対象関係や自己・他者イメージを視覚化し、より統合された自己感覚や安定した対象関係を形成するための基盤となり得ます。
- アタッチメント理論: 不安定型アタッチメントは、感情調節の困難さや対人関係の不安定さと関連が深いです。アートセラピーにおける治療関係は、安全な基地としての役割を果たし、クライアントが感情を安心して表現し、受容される体験を通じて、より安全なアタッチメントスタイルを内的に構築することを支援します。
- 精神力動的視点: アートワークは、意識化されていない内的な葛藤や防衛機制を象徴的に表現する媒体となります。投影、取り込み、スプリッティングといった防衛がアートに現れることを臨床家が捉え、共感的に応答することで、クライアントの内的な力動への洞察を深めることが可能となります。
- 感情調節スキル(DBTの視点): 弁証法的行動療法(DBT)はBPDの主要な治療法の一つであり、感情調節スキルの獲得に焦点を当てます。アートセラピーは、DBTのスキル(例:マインドフルネス、苦悩耐性、感情調節)を実践する具体的な方法を提供し得ます。例えば、特定の感情に気づき、それを批判せずに受け入れるマインドフルネスは、アート素材に触れる感覚や制作プロセスに意識を向けることで養われます。また、激しい感情の中で制作を続けることは、苦悩耐性を高める訓練にもなります。アートを通して感情を客観的に捉え、表現することは、感情の理解と調節を促進します。
アートワークは、言語化が困難な強烈な感情に対し、安全な距離を置いて向き合うことを可能にします。また、混沌とした内面を具体的な形として外在化することで、構造化されていない感情や体験を視覚的に整理し、内的な体験に意味を与え、統合していくプロセスを支援します。
具体的なアートセラピー手法とセッション展開例
BPDのクライアントに対するアートセラピーでは、構造と柔軟性のバランスが重要です。安全な枠組みの中で、クライアントが自由に感情を表現できる空間を提供します。
1. 「感情の波」を色彩と形態で描くワーク
- 目的: 感情の不安定さ、特にその強さと変化の速さを視覚化し、感情の「波」として捉えることで、感情に飲み込まれる感覚を軽減し、客観視と調節を促す。
- 進め方:
- クライアントに、「最近経験した感情の波」や「典型的な感情の変化」を、色や線、形で表現するよう促します。紙を横長に使い、時間軸を意識してもらうことも有効です。
- 例:「今日のセッションに来るまでの間に感じた感情の変化を、一本の線や色の流れで描いてみましょう」「まるで波のように押し寄せてくる感情を、どんな色や形、強さで表現できますか?」
- 使用素材は、絵の具、パステル、クレヨンなど、感情の強さや流動性を表現しやすいものが良いでしょう。
- セッション内での声かけ・インタラクション:
- 制作中:「手が動くままに任せてみましょう」「今感じていることをそのまま色や線に乗せてみてください」
- 作品完成後:「この絵の中で、特に惹かれる(気になる)部分はありますか?」「この色は何を感じさせますか?」「この線の勢いは、どんな時のご自分を表しているようです?」「感情が一番高まっている(あるいは落ち込んでいる)のはどの部分ですか?」「感情が変化していく様子は、どのように描かれていますか?」
- 感情の波に名前をつけたり、それぞれの波の間隔や高さを観察したりすることで、感情体験を構造化する支援を行います。
- 想定されるクライアントの反応と対応:
- 「何も描けない」:感情の麻痺や圧倒されている状態を示唆します。小さなスケッチブックやカードサイズで「今のほんの少しの感覚」を描く、特定の感情語(例:「イライラ」)の色だけを塗るなど、小さなステップを提案します。
- 激しい筆致で紙を破る:強い怒りや苦悩の表出。安全を確保しつつ、「今、その強さで表現したいのですね」「この絵は、あなたのその気持ちをそのまま受け止めてくれますよ」と共感的に応答し、安全な表現方法(新聞紙や粘土を叩くなど)を代替案として提示することも検討します。
- 作品をすぐに捨てようとする:自己否定感や作品への嫌悪感。作品そのものを受け入れるのではなく、「あなたが今感じているその気持ち(捨てたい、見たくない)は、ここで受け止めますよ」とクライアントの感情そのものに焦点を当て、作品から少し距離を置いて観察することを提案します。
2. 「内なる部分」を描くワーク
- 目的: 感情や自己像の断片化を視覚化し、内的な部分(サブパーソナリティ)に気づき、それぞれの部分にスペースを与えることで、自己の統合を促す。
- 進め方:
- クライアントに、「自分の内側にいると感じる様々な自分自身(怒っている自分、傷ついている自分、頑張っている自分など)」を、それぞれ異なる色や形、キャラクターとして描くよう促します。
- 紙を分割したり、複数の紙を使ったりしても構いません。
- セッション内での声かけ・インタラクション:
- 「内側にどんな声が聞こえますか?」「どんな自分が今、一番感じているようです?」「その『自分』はどんな色や形をしていますか?」
- 各部分の絵について、「この部分はあなたにとって何を意味しますか?」「どんな時にこの部分が出てきますか?」「この部分同士は、絵の中でどのように関係していますか?近すぎますか?遠すぎますか?」
- 各部分に名前をつけたり、対話を試みたりすることで、内的な部分間の関係性を探求し、理解を深めます。
- 留意点・応用例:
- 解離傾向が強いクライアントの場合、このワークは解離を促進するリスクも伴います。治療関係が十分に確立され、クライアントがグラウンディングスキルを持っていることを確認した上で実施することが重要です。
- 描かれた部分同士の関係性が非常に攻撃的である場合、安全な境界線を引くことや、それぞれの部分が必要としているものを探求する方向に焦点を移すことも有効です。
実践上の留意点と応用例
- 安全な空間の確保: BPDのクライアントは、治療関係において激しい感情や試し行動を示すことがあります。アートセラピーのセッションにおいても、物理的・心理的な安全空間を確保することが最優先です。素材の選定(刃物や尖ったものなど、自傷行為に繋がりかねないものは避ける)、時間の厳守、構造の提供などが含まれます。
- 治療関係の活用: アートワークだけでなく、制作プロセスにおけるクライアントの言動、臨床家とのインタラクションそのものが重要な情報源となります。転移や逆転移を意識し、クライアントの対人関係パターンがどのように治療関係に現れるかを観察し、適切に対応することが不可欠です。クライアントがアートワークを通じて示す治療者への依存や拒絶といった感情に対し、治療関係の中で安全に体験し直せるよう支援します。
- 解釈の押し付けを避ける: アートワークの解釈は、あくまでクライアント自身の意味づけを重視します。臨床家が一方的に意味を付与するのではなく、「この色は何を感じさせますか?」「この形はあなたにとって何を意味しますか?」と問いかけ、クライアントの内的な体験に寄り添う姿勢が重要です。特にBPDクライアントは、他者からの否定的な評価に敏感であるため、批判的なニュアンスは厳禁です。
- 衝動性への対応: 衝動的に作品を破壊したり、セッションを中断しようとしたりすることがあります。そのような行動の背景にある感情や苦悩を言葉にすることを促し、「今、どんな気持ちでそうしたいと感じていますか?」と寄り添います。作品の破壊を代替する安全な行動(例:紙をビリビリに破くための別素材を用意する)を提案したり、休憩を取り入れたりすることも有効です。
- 他の治療法との統合: アートセラピーは、DBT、スキーマ療法、精神力動的心理療法など、BPDに有効とされる他の治療法と組み合わせることで、より効果を発揮することが多いです。例えば、DBTで学んだ感情調節スキルをアートワークの中で実践したり、スキーマ療法で特定された早期不適応的スキーマがアートにどう現れるかを探求したりすることが考えられます。
- 困難事例への応用:
- 自殺念慮/自傷行為: アートワークを通じて、自殺念慮や自傷行為の衝動の強さ、その時の感情状態、引き金となる状況などを視覚化し、言葉にする手がかりとします。安全計画をアートに描き出す、苦痛を和らげる代替行動リストをアートで表現するなど、具体的な対応策の探求にも繋げられます。ただし、危険性の高い状態での実施は慎重な判断が必要です。
- 解離: 解離している状態を色や形で表現することを試みます。身体感覚に戻るためのグラウンディング技法(足の裏の感覚をアート素材で表現するなど)をアートと組み合わせることも有効です。
結論
境界性パーソナリティ障害のクライアントが抱える複雑で不安定な感情や自己・他者関係は、言語化が困難であるからこそ、アートセラピーによる非言語的な表現が非常に有効なアプローチとなり得ます。色や形として外在化された内的な体験は、クライアント自身が自身の感情や自己像、関係性のパターンに気づき、距離を置いて観察するための媒体となります。
経験豊富な臨床心理士として、クライアントのアートワークに現れる色彩や形態、構成といった視覚的な要素から、その内的な力動や感情の状態を丁寧に読み解き、適切な声かけやインタラクションを通じて、クライアントの自己理解と感情調節能力の向上を支援することが求められます。安全な治療関係を基盤とし、アートワークを通じて表出されるクライアントの強烈な感情や混沌とした内面に対し、共感的に寄り添いながら構造を提供していくプロセスは、クライアントの内的な統合と回復に向けた重要なステップとなるでしょう。
本稿で提示した手法や視点が、臨床実践におけるアートセラピー活用の深度を高める一助となれば幸いです。