アートセラピーにおける未分化な感情の探求:色と形が促す内的な輪郭形成と臨床的支援
はじめに:未分化な感情とアートセラピーの可能性
臨床実践において、クライアントが自身の感情を明確に認識し、言語化できるとは限りません。「漠然とした不安がある」「何とも言えない感覚に囚われている」「特に何も感じない」といった表現は、感情がまだ明確な形や言葉になっていない、いわゆる「未分化な感情」の状態を示唆しています。このような状態にあるクライアントへの言語的なアプローチは難航しやすく、臨床家は介入に際して困難を感じることが少なくありません。
未分化な感情は、自己理解の遅れや、特定の感情への対処スキルの欠如、あるいは過去の経験(特にトラウマなど)に関連する感覚の麻痺や解離として現れることがあります。感情が「点」ではなく「塊」や「流れ」、あるいは「空白」として体験されるため、従来の認知や感情に焦点を当てたアプローチでは捉えきれない深さを持つことがあります。
アートセラピーは、言葉や論理的な思考を介さず、色、形、素材といった非言語的な要素を用いて内的な世界を表現することを可能にします。この特性は、未分化な感情のように言葉にならない、あるいは言葉にするのが困難な内的な体験を、視覚的・触覚的な形として捉え直す過程を支援する上で非常に有効です。色や形は、感情のニュアンスや強度、質といった、言語では伝えきれない側面を映し出す鏡となり得ます。本稿では、アートセラピーが未分化な感情の探求と「内的な輪郭形成」をどのように促し、臨床実践においてどのように活用できるかを探求します。
理論的背景:未分化感情とアートセラピーの関連性
未分化な感情を理解する上で、いくつかの心理学的視点が参考になります。
- 対象関係論における未分化: W.R.D.フェアバーンやD.W.ウィニコットは、発達早期の環境との相互作用が不十分であった場合、自己と他者の境界が曖昧であることと並行して、内的な感情体験も未分化な状態に留まる可能性を示唆しました。感情が特定の対象や状況と結びつかず、拡散したまま体験されることがあります。
- 家族システム理論における未分化: マレー・ボウエンの概念としての「自己の分化度 (differentiation of self)」は、感情的な反応と知的な判断を区別し、他者との情緒的な融合から独立できる度合いを指します。分化度が低い状態は、ストレス下で感情的な反応が優勢となり、思考や感情が混ざり合い、未分化な感情として体験されることと関連し得ます。
- 身体感覚と感情の関連: 神経科学やソマティック心理学の知見は、感情体験が身体感覚と密接に結びついていることを示しています。未分化な感情は、特定の身体感覚としてのみ体験されたり、あるいは身体感覚そのものも曖昧であったりすることがあります。アートセラピーが素材の触覚や描く/作る行為を通して身体に働きかけることは、感情の輪郭を捉える上での重要な手がかりを提供します。
アートセラピーにおける「内的な輪郭形成」は、これらの未分化な状態にある感情や感覚に、色や形、そして作品という物理的な実体を与えるプロセスを指します。このプロセスは、クライアントの内的な世界を「象徴化」することによって、感情を「コンテイニング(保持・処理)」可能な形にする助けとなります。ビオンのコンテイナー/コンテインド理論における母親の機能のように、臨床家はクライアントの未分化な感情を、アートという媒体を介して共に体験し、それをより理解可能な形としてクライアントに返す役割を担います。色や形そのものが、曖昧な感覚に対する最初の「名前」や「境界線」となり、感情の分化を促す出発点となり得るのです。
具体的な手法とセッション展開:未分化な感情を「見える化」する
未分化な感情に取り組むアートセラピーセッションでは、結果としての作品の完成度よりも、クライアントが素材や色とどのように関わるか、そしてそのプロセスの中でどのような感覚や気づきが生じるかに焦点を当てることが重要です。
1. 素材の選択と誘導
未分化な感情を表現する際には、明確な形を作りやすい素材(鉛筆、マーカーなど)よりも、曖昧さや不定形さを許容する、あるいはそれが表現しやすい素材の選択が有効な場合があります。
- 水彩絵具やインク: 色の混ざり合い、滲み、ぼかしといった技法が、感情の曖昧さや境界のなさ、流動性を表現するのに適しています。「今の、はっきりしない感じを、色と水を使って自由に表現してみてください。」といった声かけが考えられます。
- パステルやクレヨン: 色を重ねたり混ぜたりすることで、感情の「層」や「深さ」を表現できます。指でこすってぼかすこともでき、輪郭の曖昧さを表現するのに役立ちます。「言葉にならない感覚を、これらの色の積み重ねで表現してみましょう。」
- 粘土: 形を作ること自体が難しい場合でも、粘土の触感や、ただ握ったり潰したりする行為自体が、内的な感覚の表現や解放につながることがあります。「手の感触を頼りに、今の体の内側にある、はっきりしない感じを形にしてみてください。形にならなくても構いません。」
- 砂絵やサンドプレイ: 砂という流動的な素材そのものが、捉えどころのない感覚を表現するのに適しています。砂に触れる行為はグラウンディング効果も期待できます。「この砂を使って、今の心のざわつきや静けさなど、言葉にならない状態を表現してみましょう。」
クライアント自身に「今の手触りや感覚に合う素材を選んでみましょう」と促すことも、自己の内側に意識を向ける良い機会となります。
2. 表現の探求と声かけ
作品が生まれ始めたら、その「色」や「形(あるいは形にならない状態)」について、クライアント自身の言葉や感覚で語ってもらうことを促します。この段階では、臨床家が解釈を押し付けるのではなく、クライアントの内的な体験を引き出す声かけが中心となります。
- 色について: 「この色が広がっているあたりは、どのような感じがしますか?」「この色が他の色と混ざり合っているところは、どんな風に見えますか?」「この色に温度や音があるとすれば、どんなものでしょう?」色彩心理学的な視点(例:鈍い色はエネルギーの停滞、鮮やかな色は活性化など)は臨床家の理解の助けになりますが、まずはクライアント自身の感覚を優先します。
- 形について: 「この形にならない塊に触れていると、どんな感覚がしますか?」「もしこの塊が何かを語るとしたら、何と言っているでしょう?」「このぼんやりした線は、どこへ向かっているように見えますか?」未分化な状態を否定せず、「形にならないこと」そのものも重要な表現として受け止めます。
- 空間と配置: 「色や形が、紙や空間のどのあたりに配置されていますか?」「ある部分と他の部分の距離は、どんな感じがしますか?」これは内的な空間や境界の感覚を探る手がかりとなります。
- 身体感覚との繋がり: 「この絵の、この部分の色や形を見ていると、体のどこかに何か感じますか?」「粘土を触っている手の感覚は、いつもの感覚と違いますか?」身体と内的な感覚を結びつけることで、曖昧だった感情に身体的な根拠を与えることを試みます。
3. 内的な輪郭形成への移行
作品がある程度形になったり、特定の要素が際立ってきたりしたら、意識的に「輪郭」や「境界」を意識するワークを取り入れることができます。
- 境界線を引く: 「もしこの色の周りに線を引くとしたら、どんな線になりますか?」「このぼんやりした部分と、そうでない部分を分けるとすれば、どこに区切りを入れますか?」
- 明確な形を作る: 粘土であれば、曖昧な塊から何か特定の形(たとえ抽象的なものでも)を切り出したり、紙の上に描かれた不定形な色の中に、何か意味を持つ形を見つけ出したりすることを促します。
- 名前をつける: 作品全体や、作品の中の特定の色や形に、もし名前をつけるとしたら、どんな名前になるか尋ねます。「このぼんやりした塊に、もし名前をつけるなら?」これは象徴化と概念化の第一歩となり得ます。
これらのワークは、クライアントが自身の内的な体験に構造を与え、捉えどころのない感覚を「これかもしれない」と思える具体的な何かとして認識する手助けとなります。
実践上の留意点と応用例
- 「何もできない」への対応: 未分化な感情が強いクライアントは、アート活動そのものへの抵抗や、「何も思いつかない」「どうすればいいか分からない」といった困難を示すことがあります。この場合、無理に制作を促さず、ただ素材に触れてみる、色を眺めてみる、紙の上にランダムに線を引いてみるなど、行為そのものに焦点を当てた声かけが有効です。「ただ、この色のインクが紙に広がる様子を一緒に見てみましょう。」といった、クライアントの負担にならない優しい導入を心がけます。臨床家が隣で同じように素材に触れるモデリングも有効な場合があります。
- プロセスへの焦点: 完成した作品の解釈よりも、クライアントが素材を選び、手を動かし、色や形と関わる「プロセス」そのものに細心の注意を払います。素材への躊躇、色の選び方、筆圧、描くスピード、ため息、表情の変化など、言葉にならない情報がプロセスには含まれています。
- 治療関係の活用: 未分化な感情を抱えるクライアントは、治療関係においても曖昧さや不安定さを示すことがあります。臨床家が、クライアントの曖昧さや「分からない」という状態を「コンテイニング」し、辛抱強く寄り添う姿勢を示すことが、クライアントの内的な安定と、感情の輪郭形成を支える基盤となります。
- 応用例:身体との連携: 未分化な感情が身体感覚の麻痺と関連している場合、アート制作の前に軽い身体ワーク(ストレッチ、呼吸法)を取り入れたり、制作中に身体の特定の部位に意識を向けてもらう声かけを組み合わせたりすることが有効です。例えば、描いている色の部分が、身体のどこかの感覚と似ているか尋ねるといった方法です。
- 応用例:複数作品の比較: セッションを重ねる中で、未分化な感情の表現がどのように変化していくかを追跡します。初期のぼんやりとした作品が、徐々に特定の形や色合いを持つようになる過程は、内的な変化や統合のプロセスを示唆します。
結論:色と形が拓く内的な世界
未分化な感情は、クライアントにとって捉えどころがなく、それゆえに深い苦悩の原因となり得ます。アートセラピーは、このような言葉にならない内的な体験に対し、色や形という非言語的な媒体を通じてアクセスし、表現する機会を提供します。
色と形を用いた表現は、曖昧だった感情や感覚に具体的な「輪郭」を与えることを促し、内的な世界を「見える化」するプロセスを支援します。この「内的な輪郭形成」は、クライアントが自身の感情を客観的に捉え、理解し、やがて言葉として表現したり、適切に対処したりするための重要なステップとなります。
経験豊富な臨床心理士として、クライアントの語りだけでなく、彼らのアート作品に現れる色や形、そしてそのプロセスから、未分化な感情という深層にある内的な体験を丁寧に読み取り、クライアントが自身の内的な世界に形と意味を与えていく旅を、アートという羅針盤と共に支援することが求められます。アートセラピーは、未分化な感情に苦しむクライアントにとって、自己との繋がりの回復と、より統合された自己への道を拓く、力強い臨床ツールとなり得るのです。