アートセラピーにおける「混色」と「重ね塗り」の臨床心理:感情の混在と変容を読み解く
はじめに:感情の混在とアートセラピーの表現技法
クライアントの抱える感情はしばしば単一ではなく、様々な感情が複雑に絡み合ったり、層をなしたりしています。喜びの中に不安が混ざり、怒りの下に悲しみが隠されているなど、その様相は多様です。このような複雑な感情のダイナミクスは、言語による表現だけでは捉えきれない場合があります。アートセラピーは、感情を非言語的に、色や形といった視覚的な要素を通じて表現することを可能にしますが、特に「混色(Color Mixing)」や「重ね塗り(Layering)」といった技法は、この感情の混在や層状構造、そしてその変容プロセスを映し出す有力な手がかりとなります。
本稿では、アートセラピーにおけるクライアントの「混色」や「重ね塗り」の表現に着目し、それがどのような心理的意味合いを持ちうるのか、臨床心理士がどのようにこれらの表現を読み解き、セッションに活かすかについて、その理論的背景と実践的応用を深く考察します。
理論的背景:感情の多層性とアート表現
感情の多層性と混在
心理学において、感情はしばしば複合的であると考えられています。例えば、Robert Plutchikの感情の円環モデル(Wheel of Emotions)は、基本的な感情が混ざり合ってより複雑な感情が生まれることを示唆しています。また、精神分析的な視点からは、意識的な感情の下に無意識的な感情が抑圧されている、あるいは複数の自己状態が異なる感情を同時に抱えうる、といった考え方があります。こうした感情の多層性や混在は、クライアントの自己理解や対人関係、行動パターンに深く影響を及ぼします。
アート表現における「混色」と「重ね塗り」の象徴性
アートセラピーにおいて、色材を混ぜる行為や、色を重ねる行為は単なる技法以上の意味を持ち得ます。
- 混色: 異なる色を混ぜ合わせるプロセスは、異なる感情や思考、あるいは自己の部分を統合しようとする試み、またはそれらが衝突し混乱している状態を象徴し得ます。混ぜる色の種類、混ぜ方、混ぜた結果の色合いは、クライアントの内的な葛藤や調和の状態、あるいは特定の感情がいかに他の感情と関連しているかを示唆する可能性があります。例えば、鮮やかな補色同士を混ぜて濁った色を作ることは、激しい感情の衝突や混乱、あるいはそれらを「汚いもの」として扱おうとする心理を表すかもしれません。一方で、隣り合う色相を滑らかに混ぜ合わせることは、感情の緩やかな移行や共存を示す可能性もあります。
- 重ね塗り: 画面上に色を層のように重ねていく行為は、時間経過に伴う感情の変化、過去の感情が現在の感情に影響を与えている状態、あるいは特定の感情を覆い隠したり、逆に強調したりする心理的防衛や表現の様式を象徴し得ます。透明度の高い色材(水彩など)で重ねる場合は、下の層にある感情や思考が透けて見え、現在の状態と過去の状態が共存している様を表すかもしれません。不透明な色材(アクリル絵具など)で重ねる場合は、下の層を完全に覆い隠し、特定の感情を抑圧・否認しようとする試みや、過去の経験を「上書き」したい願望を示す可能性もあります。重ねる順番、層の厚さ、重ね方の強弱も重要な情報源となります。
実践:混色と重ね塗りの臨床的読み取りと介入
臨床において、クライアントの作品における混色や重ね塗りのあり方を観察し、その表現のプロセスと結果に注目することは、彼らの内的な感情構造や処理プロセスを理解する上で非常に有益です。
観察のポイント
- 混色の様態:
- どのような色が混ぜ合わされているか?(補色、類似色、基本色のみか?)
- 混色のプロセスはスムーズか、ためらいが見られるか?
- 混ぜた結果の色は、意図したものか、偶発的なものか?
- 混ぜた色は作品全体にどのように配置されているか?
- 重ね塗りの様態:
- どのような色がどのような順番で重ねられているか?
- 下の色が透けて見えるか(透明性)、完全に覆い隠されているか(不透明性)?
- 重ね塗りのストロークは、丁寧か、荒々しいか?
- 重ねられた層の厚さや密度はどうか?
- 重ね塗りが特定の領域に集中しているか、全体に及んでいるか?
セッションでの声かけ例と介入のポイント
クライアントの作品に見られる混色や重ね塗りに気づいた際、それを評価的に捉えるのではなく、あくまでクライアントの内的な世界の「表現」として探索的に関わることが重要です。
- 混色に対する声かけ例:
- 「この部分の色は、いくつかの色が混ざり合っているように見えますね。そこに混ざっている色たちは、あなたにとってどんな気持ちや感覚でしょうか?」
- 「いくつかの色を混ぜる時、何か感じたことはありますか? そのプロセスはどんな風でしたか?」
- 「もし、この混ざり合った色の中にいる感情たちが、お互いに話すとしたら、どんな会話をしていると思いますか?」
- 「この混ざり合った色は、あなたの内側のどんな状態を表しているように感じますか?」
- 混色への介入例:
- 混ぜ合わせた色をそのまま「受け止められたもの」として肯定的に扱う。
- 混ぜる前の個々の色(感情)にも焦点を当て、それぞれの感情に気づき、名前をつけることを促す。
- 必要であれば、意図的に特定の感情(色)を分離してみる、あるいは異なる感情(色)を混ぜずに並べてみるワークを提案する(例:「もし、この二つの気持ちが隣り合っているだけなら、どんな風に見えるでしょう?」)。
- 混色プロセス自体に焦点を当て、葛藤や統合の「体験」として語ることを促す。
- 重ね塗りに対する声かけ例:
- 「最初に塗った色のさらに上に、別の色が重ねられていますね。その重ねられた色について教えていただけますか?」
- 「下の色と上の色、それらはあなたの中でどんな関係のように感じられますか?」
- 「この色を重ねる時、何か特別な意図や感覚はありましたか? 例えば、隠したかったとか、何かを加えたかったとか?」
- 「もし、この重ねられた色たちがあなたの心の中の時間や出来事を表しているとしたら、どんな物語が隠されているでしょうか?」
- 重ね塗りへの介入例:
- 重ねられた層を「時間」や「深さ」のメタファーとして扱い、過去や現在の感情の関係性を探索する。
- 不透明な重ね塗りが見られる場合、その下に隠された感情や思考に安全な形で光を当てる可能性をクライアントと共に探る(例:「もし、この下の色が少しだけ透けて見えたとしたら、どんな色が見えそうでしょうか?」)。
- 透明性の高い重ね塗りが見られる場合、感情の共存や移行の自然さを受け入れ、肯定的に捉えることを支援する。
- 重ねるプロセス自体に焦点を当て、それがクライアントにとってどのような体験であったかを語ることを促す。
画材の選択と応用例
使用する画材によって、混色や重ね塗りの可能性や表現力は大きく異なります。
- 水彩絵具: 透明性が高く、重ね塗りによって下の色が透けて見えるため、感情の重なり合いや共存、時間経過による変化の表現に適しています。混色は、色の分離(セパレーション)など偶発的な効果も生まれやすく、コントロールできない感情の様相を映し出すこともあります。
- アクリル絵具・油絵具: 不透明度が高く、下の色を完全に覆い隠すことができます。感情の抑圧、否認、あるいは過去の出来事を上書きしたい願望などを表現しやすいでしょう。厚塗りは感情の強さや固着、存在感を表現するのに適しています。
- パステル・色鉛筆: 混色や重ね塗りは、色を「混ぜる」というよりは「擦り合わせる」「重ね合わせる」感覚に近くなります。色の粒子や線が残りやすく、感情のざらつき、繊細さ、あるいは特定の感情が他の感情の中に「存在している」様を表現するのに適しています。
臨床では、クライアントに様々な画材を提示し、彼らが自らの内的な状態を最も適切に表現できると感じるものを選んでもらうことが重要です。また、特定の画材での表現に固執する場合、それが示す心理的意味合いについても考察が必要です。例えば、常に不透明な画材で厚く重ね塗りをするクライアントは、過去の感情に強く囚われている、あるいは特定の感情を頑なに隠そうとしている可能性があります。その場合、透明な画材や、混色を促すような技法を提案することで、表現の幅を広げ、内的な状態に新しい視点をもたらすことができるかもしれません。
困難事例へのアプローチ
- 混色や重ね塗りを避けるクライアント: 感情の混在や層化に向き合うことへの抵抗を示している可能性があります。まずは単色での表現を受け止め、徐々に複数の色を使うこと、色が隣り合うことへの抵抗を探求します。必要であれば、セラピストが安全な形で色の混色や重ね塗りのデモンストレーションを行い、技法への抵抗を和らげることも有効です。
- 常に画面全体を混ぜたり重ねたりするクライアント: 内的な混乱や境界の曖昧さ、あるいは感情を明確に区別することの困難さを反映しているかもしれません。構造化されたワーク(例:異なる感情ごとに領域を分ける、特定の感情を一つの色で表すなど)を導入したり、キャンバスを分割したりすることで、感情の分化や整理を促すアプローチが有効な場合があります。
- 特定の混色や重ね塗りのパターンを繰り返すクライアント: 内的な葛藤や対処メカニズムの固着を示唆している可能性があります。繰り返されるパターンに注目し、それがクライアントにとってどのような意味を持つのか、過去の経験や現在の困難とどのように関連しているのかを丁寧に探索します。新たな画材や技法を提案することで、固定化されたパターンを揺り動かし、新しい表現と体験を促すことも検討します。
結論:表現の奥深さを読み解く視点
アートセラピーにおける「混色」と「重ね塗り」の表現は、クライアントの複雑な感情の混在、層状構造、そして変化や統合といった内的なダイナミクスを理解するための強力な手がかりとなります。これらの技法は単なる描画方法ではなく、クライアントが自身の内的な世界を構成し、対処し、変容させていくプロセスそのものを映し出す鏡となりうるのです。
臨床心理士は、これらの表現を注意深く観察し、その背後にあるクライアント固有の心理的意味を探求することが求められます。画材の特性やセッションにおける具体的な声かけ、適切な介入手法を組み合わせることで、クライアントは自身の複雑な感情世界をより深く理解し、受け入れ、そして新たな統合や変容へと向かうプロセスを歩むことができるでしょう。混色や重ね塗りの「結果」だけでなく、色と色が混ざり合い、層をなしていく「プロセス」そのものに寄り添う視点が、クライアントの内的な旅に伴走する上で不可欠となります。